上田 泰己 – 理化学研究所 チームリーダー・博士(医学)
医学部生時代からソニーコンピュータサイエンス研究所、山之内製薬での研究経験を持ち、27歳の若さで大学の教授職に相当する理化学研究所のチームリー ダーに就任。
上田さんの名前を一躍有名にしたこれらの経歴も、やりたいことを実現するための通過点に過ぎない。
「大事なのは、自分が何をやりたいのかとい うこと。それによって選ぶべき道は複数あって、その方が面白いと思うのです」。(incu-be*02より)
研究との出会い
生命とは何か。この大きな問いに対して、上田さんは生物の体内時計に着目した具体的な課題に落とし込み、現在、朝、昼、夜といった時間のリズムを作り出すしくみを明らかにしようと挑んでいる。
今は生物分野の研究に従事する上田さんだが、高校生の頃好きだった教科は物理や数学だ。特に、推論を重ねる演繹的な思考に惹かれていたという。「ただ、演繹法で扱う対象となると、物理が相手にする宇宙はリアルではない。生命や精神、特に人というのは対象として面白いなと高校の時に思っていました」。そんな上田さんは高校生の頃「大学を見てみたい」と当時通っていた高校の校長先生にお願いをし、東京大学医学部の研究室を訪れたことがある。退官間近にも関わらず、研究が楽しくて仕方ないと子供のように語りかける研究者に迎えられ「研究の世界って変なところだな」と思ったことが研究との出会いだった。
こうした経験を経て、やがて東京大学医学部に入学し、3年生から医学部の専門課程で生物学の授業を受け始めるのだが、何故か面白くない。当時、生物学で行われていたのは、細胞内の現象に関わる役者の同定が主流だった。「これは手法としてはあまり面白くない。その次のステップがあるだろう」と考えていた。生命とは何か、医学が前提としている健康や、病気のメカニズムとはどのようなものなのか。どうすればこういったことが定義できるのだろうか。新しい生物学の予感に漠然とした不安と期待を感じていた。
新しい生物学の手法へ
大学3年の1996年に大腸菌と酵母のゲノム(全DNA配列情報)解読が発表された。その驚きとともに、生物が持っている遺伝子の数が全てわかることの意義について、研究室の先生と散々議論を交わした。エネルギー合成、DNA複製、転写といった細胞内での現象を、諸々の因子の挙動の総体として理解する生命科学が始まるのではないか。それまでの分子生物学の手法で一度に扱える因子はせいぜい数個に過ぎない。「そこから一度に数千、数万の因子を扱う生物学へと転換するには、手法を根本的に変えなければいけない」と思った。
一度に数千以上のサンプルを扱うには、自分で手を動かす代わりに自動化された機械を使わなくてはいけない。そして、そこから出てきたデータを効率的に処理するなら計算機も必要だ。「卒業まであと2年しかない」。卒業までに機械と計算機にふれなければと気がはやった。
研究の場所を選ばず
大学4年の暑い夏の日、計算機を使った生命科学を始めようとしていたソニーコンピュータサイエンス研究所の北野宏明さんのもとに飛び込んだ。「北野さんは汗臭い変なやつが来たなーって、どうしようとか思ったらしくて(笑)」。そんな印象も上田さんから溢れる情熱の前に消え、ソニーの研究所で細胞内のプロセスを計算機でシミュレーションする研究が始まった。そして、残る機械についてのノウハウが得られる場所も、自ら探した。
製薬企業には機械を使って数千、数万のオーダーで薬剤などの刺激に対する細胞の反応を調べる技術がある。ということは、ノウハウを学ぶには絶好の場所だ。自らコネクションを作り、大学5年の時にはプロジェクトに参加するまでになった。何をやりたいかで研究の場所も変化する。必ずしもそれはアカデミアとは限らないのだ。
卒業後もそのまま製薬企業で研究を続けると決めていたという上田さん。だが、大学のように自分で試行錯誤できる実験系が身近にある場所で、ウエット(生物試料を使った研究)の実力を磨く必要性も感じていた。そのために大学院に進学し、学生として製薬企業と共同研究をする手は簡単に考え付くところだが、最終学年である6年の時、大学に企業の人を受け入れる体制ができることを知る。上田さんは「体制を逆手にとって、企業の人として大学院に社会人入学する」ことを選ぶ。既成の枠の中で自分の場所を探すのではなく、やりたいことに応じて自分のやり方を変える。自分の場所は自分で創るのが上田さんのやり方だ。
やりたいことによって選ぶべき道は変わる
上田さんは現在、体内時計の動作原理に迫ろうとしている。そのために、刺激を定量的に変化させていった時の体内時計遺伝子の応答を調べている。新たに始めようとしているアプローチは、機械で制御しながら異なる量の薬剤をサンプル毎に与え、様々な量の薬剤に対する体内時計の変化を一挙に調べるものだ。しかし、細胞を使って一度に大量の実験を行おうとしても、そのために必要な計測機が売っていない時代。「自分で作らんといかんとですよ」。
どうしたら大量のサンプルを定量的に測定できるかを探す中で、マイクロフルイディクスという方法を知ったという。マイクロフルイディクスとは、MEMS(Micro Electro Mechanical Systems)と呼ばれる半導体分野で定着している微細加工の技術を利用して、ガラスやシリコンの基板に流路やバルブなどを作って微量の溶液の流れを操作する方法だ。実験室に設備を導入し、直ぐに試せる環境を用意した。
ソニーや山之内製薬に飛び込むなど、その時々のやりたいことに対して既成の枠にとらわれないアプローチで目的を達成してきた上田さん。もし、今、学生として現在の研究に取り組むとしたら、どんな場所に飛び込んでいるのだろうか。「今、僕が大学生だったら、マイクロフルイディクスをやっている研究室にたぶん行きますね」。その時に、目指す場所に応じて、歩むべき道は変わる。道がなければ自ら道を創り出す。大事なのは自分が何をやりたいのかだ。そこには、キャリアの安定も、名声も関係ない。目的に向かって一心に進んでいく冒険家のように、上田さんの挑戦はこれからも続く。