楽器だけではない、音のあふれる世界|戸井 武司

楽器だけではない、音のあふれる世界|戸井 武司

中央大学 理工学部 教授

鉛筆で数式を書きつづる音,雨が窓をたたく音,線路を走る電車の音。身の回りにあふれるたくさんの音は,私たちの記憶に刻まれ,日常にカラフルな彩りを添える。一方,エアコンの動作音やプリンタの待機音など,しばしば不快感やストレスになるような音も多い。こうした騒音を心地よいものにしようと,逆転の発想で「音」に挑む研究者がいる。

マイナスをプラスに変える

音は,空気中の分子が振動し,波として伝わる。ものが振動して音を出すしくみも同じ。自動車の走行時にエンジンや地面との接触で生じる振動は,車内の騒音になりやすい。特に近年,車体の軽量化により振動や騒音が大きくなる傾向にあり,タイヤとの境界にあるフロアパネルが,その発生原因のひとつとされている。そこで,戸井武司さんの研究室では,フロアパネルの振動メカニズムを調べることで騒音の原因を特定。フレームの強度を保ちながら軽量化を考慮し,パネルから音が出てもそれが不快に感じない音となるような構造設計をしている。音の評価方法は2通りある。形容詞対を用いたSD法と呼ばれる7段階の評価シートへの記入を行う主観的評価と,脳波や心拍数など生体情報に基づく客観的評価だ。「昔から音には敏感なんです。生きている限り,音はなくならない。それならば,騒音を快適に聞こえる音に変えていけばいいんだと気づきました」と話す戸井さん。「快音」設計を提唱し始めた研究者でもある。

戸井 武司  中央大学 理工学部 教授

戸井 武司  中央大学 理工学部 教授

「音」が付加価値になる

中央大学で教員を始めた10数年前から,企業から製品の音に関する相談が多かったという。当時は低騒音化を目指す風潮にあったが,騒音を減らしても気に障る音や快適にならない音があり,使用者の不満がなくなることはなかった。音によって製品の評価が下がることが問題視され始めていたのだ。戸井さんは,まずどういう音にするべきかを決めてから製品の構造設計に着手。これまで構造ありきだった音に,逆転の発想で付加価値をつけていった。これまで実用化された製品に,さわやかな排水音のトイレや,爽快感のあるゴルフ打球音,耳障りでない掃除機吸入音などがある。「カメラや自動車のスペックと同じように,音も重要視される機能のひとつとなるべきです。楽器の価値が音で決まるように,音が家電製品を決めるときの指標のひとつになればいいですね」と,戸井さんは話す。世の中がどんどん便利になり,ものがあふれる豊かな時代の中,消費者には製品を選ぶゆとりが生じている。高機能化し便利な製品がたくさんある中で,明確にその性能の違いを見分けることは難しくなってきた。しかし,聴覚で感じる音に関しては,人それぞれの主観がある。音が製品を差別化することに気づき始めた産業界では,今後,音を選べるセミオーダー式製品の開発も進んでいくことだろう。

研究室で社会への助走を

そうなると,ありとあらゆる場面で音にこだわれる可能性が出てくる。戸井さんの研究室内には,厚さ30 cmの吸音材を含む壁に覆われた無響室や2台の自動車で構造解析を行う実験室が完備されている。これまで毎年約10社,合計160社以上の企業や公的な研究機関と共同研究を行ってきた。10数人いる学生は,共同研究テーマをひとつずつ持つ。社会に出る前から製品の実用化までを考慮し,研究成果の社会的な評価を知る,よい機会となる。企業のエンジニアとの打ち合わせやプレゼンテーションは,主に学生自身が行う。企業への電話も最初は緊張して躊躇する彼らだが,一段階ずつクリアできるように事前打ち合わせをするなど,戸井さんのフォローは万全だ。「一番の財産は,研究室を巣立った学生が,ものづくりの産業界でリーダーシップを取りながら活躍することですよ」。戸井さんは,研究だけではなく教育にも熱心な一面をみせた。いつも音楽を聴く帰り道,イヤフォンをとって周りに耳を傾けてみよう。当たり前だと思っていた音の世界にもいろいろな発見がきっとあるはず。戸井さんの快音設計はいつの日か,音楽を奏でるように暮らす未来へつながっていく。(文・孟芊芊)

戸井 武司(とい たけし)プロフィール:

中央大学 理工学部 教授。1993年まで,三菱電機株式会社中央研究所に勤務。1996年より中央大学で教鞭をとる。2004年から理工学部教授に就任。専門分野は,音響工学。