新しい生命観に挑戦する

新しい生命観に挑戦する

国立遺伝学研究所 副所長 教授 五條堀孝 さん(総合研究大学院大学 遺伝学専攻)

専門は分子進化学、集団遺伝学、バイオインフォマティクス(情報生物学)、ゲノム進化学。病原性ウイルスやバクテリアから高等生物まで、幅広い生物種を対象としたゲノム情報や遺伝子発現情報を比較することで生物進化の分子機構解明を目指す。脳・神経系の進化的起源や進化過程の解明を、ヒドラやプラナリアなどを対象にDNAチップを用いて解析し、ヒトなどのゲノム情報と比較することによって、研究している。国立遺伝学研究所 生命情報・DDBJ研究センター長を勤める傍ら、独立行政法人産業技術総合研究所顧問(生物情報解析研究センター)や理化学研究所客員主幹研究員の他、ライフサイエンス分野における政府の委員等、多数歴任している。

ガリレオが地動説を唱えて天動説を覆し、ダーウィンが進化論で生命の歴史を示したように、自然科学は常に新しい世界観を提示してきた。「基礎研究で最も大事なことは、新しい世界観を世間に示していくこと」と持論を話すのは国立遺伝学研究所副所長の五條堀孝教授。国立遺伝学研究所は日本において国際的な遺伝学の拠点として立ち上がり、今年、設立60年を迎える。遺伝学が急速に発展を遂げる時代を見つめる中で、新たな世界観を構築する種が育まれている。

遺伝学の歴史とともに

「親と子はなぜ似るのか」。紀元前400年のヒポクラテスの時代、遺伝学の歴史は人類のこの疑問から始まった。1800年代後半から、メンデルによる「遺伝粒子」の提唱、モーガンの染色体地図、そしてエブリーによるDNAが遺伝物質であることの証明など、観察と実験の積み重ねが新たな発見を生み、生命の基礎となる存在であるDNAにたどり着く。DNAについて様々な仮説が世界中で議論され、遺伝学が急な発展を遂げる黎明期を迎えていた1949年、富士山を臨む静岡県三島市に国立遺伝学研究所は設立された。学閥から解き放たれた自由な風土を持つ本研究所には分子、細胞、個体、集団、総合の5つの遺伝学研究系がある。DNAやタンパク質などの分子の働きにより細胞の役割が決まり、細胞が集まって組織を作り、それが個体となり、個体群が作られ、それらの相互作用から生態系が生まれる、という生命の階層に沿った組織構造になっているのだ。「どの階層の研究においても、遺伝学が中心になっています。ここではそれぞれ専門の立場から議論することで、階層間の関係を見ることができます」と五條堀さんは言う。

誰も知らない解を見出す喜び

集団遺伝学に出会ったのは、九州大学大学院の修士課程に在籍中の頃。木村資も とお生教授が中立説を唱えた1968年から数年後のことだ。数学や統計を使って進化の過程を説明し、生命現象を論理的に理解する手法に惹かれた。博士号取得後はアメリカに渡り、根井正利教授に師事する。DNAの塩基配列と生物進化の関係にいち早く数学モデルを構築し、世界で最も使われる系統解析の手法を作り上げた人だ。「最初に書いた論文は17回も書き直しをさせられました。非常に苦しかったけれど、誰も答えを知らない自然が作った問題に解を見出す喜びを知りました」。 基礎研究の魅力に病みつきになり、研究者としてのキャリアを積んできた30年の間に、DNA配列が持つ重みは増してきた。様々な生物のゲノムを読む競争が熾烈となり、シークエンス装置も発達した。ヒトゲノム計画では15年あまり、約600億円かかった全塩基配列の解読が、今では数か月単位で可能となった。今後は数分、費用も10万円程度でできるようになるといわれている。しかし、ゲノム配列が明らかになり、また細胞の機能や個体の表現型など階層ごとの現象について情報が蓄積していっても、わからないことはまだまだたくさんある。遺伝子から作られたタンパク質が、他のタンパク質や遺伝子とどのように相互作用を起こすのか、そのような相互作用ネットワークの中である因子が変化したとき、それがネットワーク全体にどう影響して細胞や組織、個体の性質に変化をもたらすのか。「分子、細胞、組織、個体、そして生態系、全てがつながったとき、初めて生命が理解できたことになるでしょう。本当の意味でゲノム解読を通して生命の理解を進め、新しい生命観を生み出せるのはこれからだと思います」。

三島から発信する世界

「ノーベル物理学賞をとった小柴昌俊先生なんか、自分の研究は200年たっても全く役に立ちませんと堂々と言い切った。でもその研究は人類の運命を変革するぐらいの役割を持つんだよね」。基礎研究が応用研究に押されがちな今の風潮に何を感じるのかとの問いに、言葉が熱くなった。では研究者がその役割を果たすために何が必要なのだろうか。「研究のスピードが速くなったことで、科学を幸せな生活にどう活かしていくのか、科学を通して世界にどう影響を与えるのかというビジョンを話し合うことが、これからは必要になってくるんじゃないかな」。遠くを見つめながら、そう答える。

国立遺伝学研究所には日本における共同利用、共同研究の基盤、人材育成の場として、世界中から様々な研究者が集まり、生命現象に対する共通性や科学に対するビジョンを話し合い、新たな世界観を構築する理想の環境がある。ここで指導に当たる先生には大事にしている言葉がある。「啐そっ啄たく同どう時じ」、ひなが孵化するには親鳥も卵をつつく必要があるように親子や師と弟子の関係もそうあるべきだという禅の言葉だ。後進とともに新しい世界観を生み出していくという信念が感じられる。「若い人はいろんな可能性を持っているからね。人と違うことを見つけるために諦めないでほしい」。多様な研究が展開されるこの機関で、世代や分野を超えたイノベーションが新たな世界観を生む予感がする。 (文:環野真理子)