命をつなぐための技術を生み出す臨床現場の挑戦 澤芳樹
「トランスレーショナルリサーチ」という言葉は、1990年前半のアメリカで、がんの予防や新薬開発の分野において使われはじめたとされる。「橋渡し研究」とも訳されるこの言葉が目指すのは、基礎研究で得られた成果をスムーズに臨床へ移行させることだ。しかし、言葉の普及よりも先に、現場の必要性に答えるかたちで、基礎研究の臨床への応用を進めてきた澤芳樹氏の言葉には、それ以上の重みが感じられる。
臨床の課題を解決するために
「自分に甘い性格だったので」と笑いながら自らを分析する澤氏は、医学部卒業後に最も厳しいとされていた大阪大学医学部第一外科を選択する。中でも心臓外科を専門とし、最初に関わることになったのが小児心臓外科だった。そこで、当時2〜3人にひとりが技術的な問題から亡くなっていたという新生児開心術における「心筋保護の手法」の改善に取り組んだ。まだ臨床分野にまで分子生物学的手法の波が押し寄せる前だったこともあり、電子顕微鏡を使ってミトコンドリアの状態を調べることから研究をスタートさせた。時を同じくして、ちょうどアメリカ国立衛生研究所(NIH)でも新生児の心筋保護に対するグラントが出始めた、まさに世界的にこの方法に注目が集まり始めた時期だった。予期せず、世界的な研究の流れに乗った澤氏は、マックスプランク研究所などへの留学などを経ながら、新生児のみならず大人も含めた、虚血再灌流障害をテーマとした研究を進めていくことになる。そして、接着因子により微小血管内に白血球が詰まることが、心筋がダメージを受ける主原因であることを明らかにし、白血球除去フィルターを介する方法を確立した。その結果、現在では手術時に大きな課題として取り上げられない程に心筋保護の効率は大改善された。まさに、臨床の課題を研究で解決する「Bedside-to-bench」の取り組みであり、トランスレーショナルリサーチのさきがけといえるだろう。
他分野とのコラボレーションから解決の糸口を見出す
「臨床の課題を解決するそのもっとも大きな成果は、製品開発が実現したり、もしくは保険が適応されたり、一般医療に普及したりと普遍的なものになることで しょう。途中で止まってしまったら、定義としてはトランスレーショナルリサーチかもしれませんが、意味がないんです」。実際に、これまで多くの事例に携 わってきた澤氏でも、きちんと治験まで進んだ成果に立ち会えた事例は少ない。2000年から東京女子医科大学の岡野氏と共同研究をスタートさせた細胞シー トを用いた治療もそのひとつだった。
肝臓の強力な再生因子として同定されたHGF(hepatocytegrowthfactor)が、心筋細胞でも有効であることが示されて以降、HGFを 用いた心筋細胞の再生に注目が集まり、様々な方法が模索される。自身も、遺伝子組換えによる心筋でのHGF発現誘導に関する研究も行っていたが、短期間に 高濃度のHGFが発現することによる、線維化や過剰な血管新生など多くの課題を抱えていた。また、HGFを発現する筋芽細胞を注入する方法も試されている が、成果が上がっていなかった。しかし、細胞シートとの出会いが、それらの課題解決につながり、研究を大きく進展させたのだ。筋芽細胞をシート状に培養 し、ラットの心筋細胞の再生から始めた研究は、大型動物での試験や前臨床試験を経て、2007年からは臨床試験に移っている。すでに18例の患者に導入さ れており、5年経った現在でも元気に生活されている方が多く、中には会社勤めを再開し、8時間勤務をこなすなど健常者と変わらない生活を送っている方もい るという。「最近の我々の動きを見ている人は“再生医療に力をいれている”と、漠然とそう思われるかもしれない。しかし、再生医療って言葉もあとから出て きたもので、我々はずっと同じことをやってきたんです。患者さんを助けるためにね」。
人を救うことだけを考える。
自らの研究を、トンネルを出口から掘っていくようなものと例える澤氏。遺伝子治療や新たな機器の開発、細胞シートの研究など、まだ出会ったことのない入り 口側にいる研究者とつながるために必要なのは、どのような視点だろうか。2002年には、有望な基礎研究の成果をいち早く臨床現場へ移行させるため、トラ ンスレショナルリサーチの拠点となる、未来医療センターが大阪大学病院内に設立された。現在は副所長を務め、先進医療として注目される技術より、さらに早 い段階での臨床研究を行う医療に力を入れている。「大事なのは研究成果に基づくトップダウンではなく、患者さんに使うためにどうしたらいいか、ということ を積み上げていくボトムアップなんです」と力強く語る。その視点から、細胞を培養する基準などひとつひとつが決められていく。そういった臨床に向けた問題 をひとつひとつ解決して行くために必要なのは、まさに執念といえるだろう。患者を助けたいという意に反して多くの方が亡くなるのを見てきているだけに、治 療法を確立することに対する意識が違うという澤氏の言葉は、自分が手術した患者が亡くなることのつらさ、家族に対する言いようのない気持ち、自分自身の力 不足や情けない気持ち、そういった様々な臨床現場での積み重ねからきている。こうしたスタンスに立って考えると、例えば、心不全を現象としてではなく、命 にかかわる疾患という意味で理解して再生医療に携わっている研究者は多くはないだろう。だからこそ、実際の臨床現場を知る医師との連携は、医療への応用を 実現するという点で大きな意味を持つ。
「いろんな問題点や課題をはらんでいるとしても、患者を助けるという視点で見たとき人工心臓は頼りになる。心臓移植も頼りになる。これから先、iPS細胞 や再生医療も頼れるツールになってもらわないとね」。澤氏を中心に進める、患者を中心に据えたトランスレーショナルリサーチが、研究現場から生まれる最新 の知見を、より早く、より確実に臨床現場へ届ける近道となるだろう。それが未来の医療を作っていくのだ。
澤芳樹氏(さわよしき)
1980年大阪大学医学部卒業、同大第一外科入局。フンボルト財団奨学生としてドイツMax-Planck研究所心臓生理学部門への留学を経て、1992 年大阪大学第1外科助手。講師、助教授を経て、2006年より現職。同大附属病院未来医療センター、大阪大学臨床医工学融合研究教育センターなどのセン ター長を兼務。