社会に適応するためのスイッチは、 メダカの脳の中に 竹内 秀明

社会に適応するためのスイッチは、 メダカの脳の中に 竹内 秀明

「空気が読めないし,常識もわからない」。東京大学の竹内秀明さんは,小学校2〜4年生を南アフリカで過ごした。人と遊ぶことはあまりなく,愛犬と釣りをする毎日。帰国して大きなギャップを感じたのは,気候でも景色でもなく「人とのつき合い方」だった。これが,今の竹内さんの研究の原点だ。

相手によって行動を変える,基準は何だ?

ヒトは社会性のある生物だ。集団で生活しているが,他人と常に同じ関係性を保っているわけではない。あるときは協調し,あるときは拒絶する。親と子の関係であれば,親は世話をし,子は世話をしてもらう。高度な社会性行動を営む動物は,他の個体を記憶,識別し,相手との社会関係を理解して,そのときの状況に応じた意思決定を行う。「その意思決定の様式にとても興味がある」と竹内さん。南アフリカから帰国して感じたギャップを高校生まで抱えてきたが,いろいろな本を読む中で「これを研究しよう」と考えるようになった。人間は,何を基準にして意思決定をしているのだろうか。他の動物と人間との違いは何だろうか—。研究をすれば,自分がこれまで考えてきたことがロジカルに説明できるようになるかもしれない。そう思った。

その原型は魚類にあるのかもしれない

社会に適応するために必要な脳機能を「社会脳」という。これはかなり高度な機能であると考えられ,これまで社会脳の研究はサルやヒトを中心に行われていた。そもそも,他の動物には社会脳のような高次の機能は備わっていないと考えられていたのだ。しかし近年,魚類が他の個体を認知し,それによって社会性行動を示すことが明らかになった。

グッピーのメスは鮮やかな色の尾をもつオスを配偶相手として選ぶ傾向があることが古くから知られていたが,1999年に社会関係も配偶相手を選ぶ基準になっていることが明らかになった。集団で飼育されているグッピーの水槽に新しい個体を入れると,その新しい個体がモテるようになる—つまり,グッピーはどの個体が新しく自分の社会にやってきたのかを判別しており,その個体に積極的にアプローチしたのだ。「人間のような高度な生物だけがもつと思われた社会脳の原型が,じつは4〜5億年前に生まれた魚類にあるのかもしれない」。この魚類の脳の中を分子や遺伝子レベルで調べていけば,社会脳の基本的な設計図が見つかるのではないか,とメダカの研究を始めた。

メダカの基準は「相手を見たこと」の有無

竹内さんは,「配偶行動に興味がある」と研究室にやって来た学生,奥山輝大さんと一緒に研究を始めた。最初は「メダカのメスは大きなからだのオスを好む」という従来の仮説に従って実験を行ったが,なかなかうまくいかなかった。困っていたそのとき,別の研究室の人のひと言が,壁を超えるきっかけになった。「前の晩にお見合いをさせておくと,次の朝にすぐ卵をつけるのよね」。重要なのはからだの大きさではなく,「見たことがある相手かどうか」なのではないか。そう気づいた竹内さんと奥山さんは,さっそく実験を行った。

水を入れたビーカーにオスだけを入れ,メスが入っている水槽に沈める。これで,オスとメスはガラス1枚を隔てた状態で「お見合い」をすることになる。3〜6時間のお見合いの後,ビーカーを傾けてオスを水槽に入れてやると,メスはオスの求愛行動をすぐに受け入れ,放卵を行ったのだ。お見合いをしなかった場合はメスがオスを受け入れるのに60秒かかったところ,お見合いした場合は10秒で受け入れた。「相手を見たことがあるかどうか」で,メダカが行動を変えたのだ。

問題を解決するためには手段を選ばない

メダカの脳を調べたところ,「GnRH3 ニューロン」と呼ばれる神経が意思決定のスイッチを担っていることがわかった。これが正常に働いていると,知らないメダカを受け入れるのに時間がかかる。しかし,レーザーで破壊すると,メスは見知らぬ個体もすぐに受け入れてしまい,オスはメスに対して求愛を行わなくなった。GnRH3 ニューロンを破壊すると,メスもオスも相手を選ばなくなる—他の個体への関心をもたなくなってしまったのだ。

「GnRH3ニューロンがメダカの恋心スイッチになっていること」を発見できたが,竹内さんがもともと興味をもっていたのは人間の行動だ。これに対し,メダカの行動を分子や遺伝子レベルで研究するという,一見とても離れて見える手法で自分の求める「答え」に近づこうとしている。「より深くクエスチョンを探求するには,既存の手技・手法からできるだけ自由になりたいと思っています。クエスチョンが最も大事だと思うから」。自分の解きたい問題に対して,手段は選ばない。そうやって竹内さんは,「社会脳」という生物の基本的ルールをひとつ,解き明かしたのだ。