センシングデータで暗黙知を形式知に変える 川原 圭博

センシングデータで暗黙知を形式知に変える 川原 圭博

IoT(モノのインターネット:Internet of Things)は、今や日常生活の中で欠かせない技術の一つとなった。あらゆるモノがインターネットに接続され、様々なデータがクラウド上に蓄積され始めている。このIoT化の波は日常生活だけでなく、一次産業にも広がりを見せている。もちろん農業も例外ではない。圃場の環境データ、収穫された農産物のデータが溜まれば、効率的な農業に応用できることは想像に難くない。SenSproutは土の中の水分量を測る土壌モニタリングセンサーである。来るべき未来の農業のために、印刷エレクトロニクス技術を応用し、新しいアプリケーション開発を手がける東京大学大学院情報理工学系研究科の川原圭博氏にお話を伺った。

プリンティング技術を農業へ

 「電子回路をペンで描く」。2014年にAgIC株式会社が開発した銀ナノインクを用いたペンとプリンタ用インクカートリッジは、産業界だけでなく、教育界にも衝撃を与えた。東京大学大学院の電子情報学専攻の川原氏は、同社の技術アドバイザーを兼任する研究者である。そして今、この回路をプリンティングする技術の新たな応用先として農業分野に注目している。この取組みがスタートした発端は、国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)の委託研究をしていた際に、センサネットの具体的なアプリケーションを示して欲しいと要望されたことだった。「我々が作るセンサーノードは安価であることが特徴です。このセンサーを適用したときにガラッと世界が変わるのはどのフィールドかを考え抜いた結果、農業に行き着きました。以前、ジョージア工科大学に留学していた時、農業のフィールドモニタリングをしていた研究者にアメリカの農業についてヒアリングをしたことがあったという。アメリカ南部において、綿花、とうもろこし、小麦などを栽培するときに生産量や品質を決めているのは日光や肥料ではなく、使える水の量であることを知った。この調査経験から、無駄な水やりを抑制することで、農業の効率化に寄与できると川原氏は考えた。

水に恵まれた日本こそ、水の管理が必要

 ところが、農業について調査を進めるうちに、日本とアメリカでは農業における「水」に対する意識に違いがあることがわかってきた。アメリカでは十分な日照、土地面積が確保できるところに水を引く。そのため、いかに効率よく水を与えるかが鍵となり、水の量とタイミングを制御したいというニーズがあった。一方、日本では十分な降雨があり、アメリカほど水の量やタイミングに関してはシビアではない。一見すると日本では水分測定が必要なさそうにも見えたが、農家への調査を続ける内に、日本でこそ水分測定が重要であることに気がついたそうだ。「そのほとんどが広大な土地を持ち、工業化が進むアメリカの農家に対し、日本の農家は北海道を除き、家族経営である場合がほとんどです。そしてその土地ごとにノウハウが違うのです」。例えば隣接する畑であっても傾斜は微妙に異なる。その場合、当然ながら水はけには差が生まれることになる。また、ビニールハウス栽培ではどこにどれだけ水をやるかは完全に農家がコントロールする必要がある。これまではその土地で長らく農作業に従事していた農家が土を触り、表面の状態を確認することで土壌中の水分を予測し、作物の出来を予想し、手入れの計画を立てていた。この農家が持つ暗黙知は従来であれば親から子へ、そして孫へと継承され、有効に活用されてきた。しかし今、この継承が滞りつつある。つまり日本ではその土地の特徴を伝えるために、水分の測定データが必要なのだ。川原氏の技術はこの暗黙知を見える化し、効率的な農業経営を後押しする可能性を秘めている。

暗黙知を次世代の担い手に繋ぐ

一般向けに開発したSenSprout。印刷エレクトロニクス技術を活かし、根に当たる部分で土壌内の水分量を測り、LEDで水分量を知らせる。プロ農家向けの製品は無線にも対応。

一般向けに開発したSenSprout。印刷エレクトロニクス技術を活かし、根に当たる部分で土壌内の水分量を測り、LEDで水分量を知らせる。プロ農家向けの製品は無線にも対応。

 現在、日本の農業は大きな構造変化の最中にあるといえよう。2015年農林業センサスによれば、農林業経営体数は2010年と比較して18.8%も減少しており、いわゆる「農業」は減少傾向にあることを示している。一方で、個人ではなく、法人として農業を経営する組織経営体数は2010年と比較して6.3%増加している。これまで個々で営んでいた「農業」は、法人化し組織的な産業へと変化していることを示している。「いずれ個人の農家の後継がいなくなった時、農業法人などに農地を渡していく動きが出てくる」と川原氏は考えている。それはすなわち、一人が面倒を見る圃場の数が格段に増えるということだ。勘と経験ではないシステム化された管理手法が必ず必要になる。時代背景の移り変わりと共に、その土地と時代にあった農業を適切に次代へと渡していかなければならない。

 情報工学の研究者は農業の現場のニーズを把握しきれていないと川原氏は話す。今どのような不便を感じているか。どのようなシステムが欲しいのか。ニーズを理解することが、新しい用途開発につながる。例えばSenSproutの開発では、取得すべき情報は土壌表面の水分量ではなく、より深いところの水分量だというヒントを農家とのコミュニケーションから得ている。こうした現場での何気ないやりとりが農業分野でのイノベーションを生み出す原動力になっている。SenSproutを中心とした農業のリアルタイムモニタリングシステムは、未来の農業を担う次世代へ暗黙知を継承する有用な手段の一つになりそうだ。

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