【特集:教科書の向こうにいる人】脳から考える理想的な学びの形 仁木 和久

【特集:教科書の向こうにいる人】脳から考える理想的な学びの形 仁木 和久

2001年から2009年にかけて、日本で行われていた研究プロジェクト「脳科学 と教育」。これは、世界的にも類を見ない挑戦的な研究プロジェクトです。教育 のように様々な要素を持つものは自然科学的なアプローチが非常に難しいもの となるからです。その中で、「知的学習の成立と評価」というテーマで研究代表 を務めていた仁木先生に脳科学の視点から考える教育の形を伺いました。

複数の現象を結びつけるエピソード記憶

私たちは脳の中に記憶を蓄積することで学びを進めています。記憶は、物の名前や言葉の意味などを言語的に記憶する「意味記憶」と自転車の乗り方や箸の持ち方などの運動スキルを記憶する「手続き記憶」との大きく2つに分類されます。 これに対し、先生が研究に取り組んでいる「エピソード記憶」は、1972年にカナダの心理学者エンデル・タルヴィングにより提唱され、新たに付け加えられた概念です。人間独特の高次の記憶と考えられています。いつ、どこで、誰が、何をしたか?というような言語的に記述できる内容と、その瞬間の状況や自分の行動、感情など言葉では簡単に表せないような事柄が結びついた記憶を指します。 エピソード記憶は、たった一度の経験で頭に残り、異なる状況にも応用が利くという特徴を持っています。私たちが何かを学ぶ際に、ある瞬間すっと理解が進んだり、初めて置かれた状況の中で、過去の経験に基づいて考えたりできるのはこのエピソード記憶によるものだと考えられています。この記憶をうまく活かすことができれば学習をより効率的に進めることができるでしょう。先生はこのエピソード記憶が形成される仕組みを明らかにしようとしています。

意図を持った行動が効率的な学びを促す

エピソード記憶を形成する際に重要な部位は海馬です。海馬は脳の中で記憶に関連する部位として知っている人も多いかと思います。何かを記憶する場合、まず海馬が働くのだと思われがちですが、実際はそうではありません。例えば、自転車の乗り方を学ぶときにはそれに対応した脳の部位が働きます。そのため海馬がなくても自転車に乗れるようになるのです。それでは、海馬はエピソード記憶形成にどのように働くのでしょうか? 私たちの脳は、日々の生活の中では基本的に自動的な処理で行動を起こしています。このようなときには記憶の蓄積はほとんど起きません。しかし、ある瞬間、海馬が活性化します。活性化された海馬はその瞬間の複合的に働く脳の状態を記憶し、エピソード記憶を形成するのです。単純な動作や意味の記憶ではないからこそ、初めて置かれた状況の中でエピソード記憶として保存された脳の状態を想起して、応用することも可能になります。 このような海馬の活性化はどのようなときに起きやすいのか、先生は脳の働きを可視化できるMRIを使って調べました。研究では、「なぞなぞ」を解くときのヒトの脳の働きを解析しています。研究の結果、答えを知りたいという欲求が大きいほど、解答がわかったときに海馬の働きが活発になることが明らかになりました。この結果から何か意図を持って行動しているときにエピソード記憶が現れやすいと考えられます。

主体的な学びが理解を深める

飛躍的に知識が増えていく現代において、その知識をうまく活用して課題解決をする能力を身につけるには、ものごとに柔軟に対処できるエピソード記憶の形成が脳科学的に重要となります。最近、各所で耳にする生徒の主体的な学びは、実はこのエピソード記憶形成と密接につながるといえます。生徒自身が学びたい、知りたいという意図を持った学びの行動は、それが達成されたときに海馬の活性化を促します。授業の中で体験や実験を行う場合にも、ただやみくもに行うのではなく、生徒が自分で疑問を持ち、実際にやりたい、試したいと思える状況にしてから実践するだけで、その学びの効果は格段と高まります。「脳を研究している立場としては、生徒が主体的な経験を積むことができる環境が増えていけばいいと思っています。自分で疑問を持ちそれに対して体験を積める環境があり、そしてそこで得た自分の理解を友人に共有できる環境があることが、『学びの場』としてのあるべき姿ではないか」と先生は語ります。自分の理解を友人と共有する行動も意図を伴うため、さらなるエピソード記憶の構築が生じ、より深い理解につながります。教員が必死に教えるのではなく、生徒の自発的な学びとその共有を促す 「行司」となれるような教育が、脳科学的には理想なのかもしれません。

教育応援vol24_p14-15(OK)_pdf(1_ページ)

産業技術総合研究所 ヒューマンライフテクノロジー研究部門 招聘研究員

仁木和久 博士

主要著書・論文 「ヒト知能の再設計ー脳イメージング研究からヒト構成的知能論へ」,認知科学の探究(日本認知科学会編),共立出版,2005 An fMRI study on the time-limited role of the medical temporal lobe in long-term topographical autobiographic memory, JOCN ,14:3(,2002) Function of Hippocampus in“Insight”of Problem solving, Hippocampus ,13(,2003)