ハエと音楽は国境を越える|上川内 あづさ

東京薬科大学 生命科学部 助教

ベートーヴェンの音楽を,ひとはなぜ美しいと感じるのか。生き物が音を認識するしくみを解明しようと,上川内さんは顕微鏡越しにショウジョウバエと向き合う。小柄でほんわか柔らかな雰囲気を持つ彼女は,世界をまたにかける国際的な研究者でもあった。

ハエとヒトの意外な共通点

ハエは交尾のために,翅を振動させ「求愛歌」を歌う。スピーカーから聴こえる小刻みな低音は,私たちが想像する幻想的な歌声からはほど遠い。「彼らには彼らの価値判断の基準があるのでしょう。それを知るために,音と脳を結ぶ神経回路を明らかにする必要がありました」。ハエには「耳」に相当する「触角」があり,数種類の神経回路が存在する。上川内さんは,感覚神経が興奮すると変色する蛍光タンパク質を使い,いろいろな刺激に対する各回路の興奮活動を蛍光顕微鏡で追った。その結果,からだを傾けたときにだけ興奮する回路があり,「触角」で重力を感知していることがわかった。実は,私たちも「耳」で音と重力を感じ取っている。話し声は鼓膜の振動としてうずまき管に伝えられ,体が揺れると内耳前庭にある平衡石が移動し,それぞれ脳の聴覚と重力感覚中枢に刺激が伝わる。この神経伝達回路もハエとヒトで酷似していたのだ。「やっぱり生き物はすごいって思いました。6億年前に進化の過程で分かれたハエと私たちにこんな類似点があったなんて不思議な感じがします」。この研究結果は2009年3月号の『Nature(ネイチャー)』に掲載され,昆虫と脳研究分野に大きな衝撃を与えた。

日本とドイツとアメリカと…

「子どもの頃から生き物が好きで,いつのまにか彼らが見ている世界をもっと知りたくなっていました」。生物学者になった上川内さんは,音楽を聴くのが趣味なこともあってハエの求愛歌行動に着目。言葉も解せぬまま単身ドイツのケルン大学に乗り込んだ。ジーンズの裾上げを頼むにもドイツ語だと2,3倍時間がかかってしまうが,最終的にはなんとかなる。大事なのは「会話」すること。それは共同研究でも同じだった。ドイツやアメリカに世界中から集まる研究者と協議することは想像以上に多くの刺激があった。同じデータでも解釈は十人十色。主張のぶつけ合いをまとめる作業は難しい。その代わり,意外な発想や客観的な視点が得られ,よりよい論文を書けたという。「ドイツ語を勉強すると日本語のおもしろさに気づくのと同じように,彼らの脳を研究することで私たちをより広い視野から深く理解することができます」。ハエを「彼ら」と呼ぶ上川内さんからは,生き物に対する愛情と思い入れが感じられた。ハエの求愛歌研究は,世界をひとつにしていくだろう。(文・孟 芊芊)

上川内 あづさ(かみこうち あづさ)プロフィール

2002年に東京大学薬学系研究科機能薬学博士課程修了。2008年より東京薬科大学。主な研究分野は,神経科学と脳解剖学。