進化の大樹のてっぺんから、私たちを知る|五條堀 孝
国立遺伝学研究所副所長。生命情報・DDBJ研究センター長,教授
ヒトがヒトらしくある所以はどこにあるのか。約500万年前から進化の過程で分かれたチンパンジーと私たち。2005年に発表されたゲノム解析の結果,両者の塩基配列の違いはたったの1.2%だった。
生き物を理解することとは
「生物の基本情報は揃いつつある。だけど,まだわかっていないことはたくさんあるんですよ」と,国立遺伝学研究所の五條堀孝さんは話す。1953年にワトソンとクリックによってDNAが二重らせん構造を持つことが解明されて50数年。現在,生き物はDNAに始まり,細胞,器官,個体,集団,生態系,そして地球へと,いくつもの階層レベルで研究が進められている。この階層間にある情報を理論的につなげていくと,生き物を理解することができるようになるのだ。実際の研究では,階層レベルを縦断するように何かひとつの生命現象に注目して,分子レベルから生態の様子まで解析することが多い。また,異なる生物間の情報を比較して,彼らの関係をつなげていく手法もある。それが「進化学」という学問だ。
サイエンスの醍醐味
五條堀さんは40年に渡り,生物進化についてウイルスからヒトまで幅広い生物のゲノム配列を比較,研究してきた。数式やデータを使って論理的に生命現象をまるごと知りたいと,九州大学在学中にタンパク質に見られる遺伝子多型のデータを収集して解析。その研究に注目したのは,なんとあの進化中立説を唱えた著名な木村資生さんだった。チャールズ・ダーウィンが唱えた自然淘汰説と同等のインパクトを,進化学・遺伝学者に与えている研究者である。木村さんは五條堀さんの論文を学会で紹介。あまりにもうれしくて,五條堀さんはこの分野でますますがんばっていこうと決めたという。その後,HIVウイルスなどRNAを遺伝情報として持つレトロウイルスの突然変異の速度が,ヒトの100万倍であることを発見。エイズの予防にはウイルスの遺伝情報が必要なのに,変異の速度が速すぎてワクチンの製造が追いつかないのだ。後ほど間もなく,その研究結果は「エイズワクチンはつくれない!」という見出しで新聞の1面を飾った。最初に自分が見つけたという興奮,そして本当にこれが事実なのかという不安が入り混じり,社会に与えるインパクトの大きさに想像以上の衝撃を受けた。「喜びと同時に怖さを感じたよ。あらかじめ設定されたゲームの世界では味わえないおもしろさ,これがサイエンスの醍醐味なのではないでしょうか」。
発見から見えてくるもの
近年,国際規模の大型プロジェクトがいくつも立ち並ぶ研究の世界。設計された目標に向かって課題をクリアしていくことももちろん重要だが,進化学などの基礎研究には,思ってもいなかったブレークスルーや大発見がある。科学者の知的好奇心を満たすには十分すぎる。「役になんてそんなに立ちませんよ,基礎研究は。でもね,ひとつの発見から新しい世界観や生命観が生まれる。そして私たちや地球という存在を知ることができる。それは,とても意味のあることなのです」と,五條堀さんは教えてくれた。教室にいるひとりひとりの顔が,みんな違う。当たり前かもしれないが,果てしなく遠い昔から進化し同時に多様性を保持してきた証。地球上にいる生物が,今,同時に存在すること自体が奇跡に等しいかもしれない。私たち,そして地球を知るために,進化の大樹から見える景色を一緒に眺めてみよう。(文・孟芊芊)
五條堀 孝(ごじょうぼり たかし)プロフィール:
国立遺伝学研究所副所長。生命情報・DDBJ研究センター長,教授。1974年九州大学理学部卒業後同大学院に進学。1979年博士号(理学)取得。国立遺伝学研究所教授,総合研究大学院大学教授などを併任し2007年から現職。2009年に紫綬褒章を受賞。