【産官学諤】脳科学がビジネスを発展させる
1989年にfMR(I functional Magnetic Resonance Imaging)の原理が小川誠二氏により発表され脳の活動が可視化できるようになったことは、世界中で脳科学研究を加速させることになった。現在では、基礎研究だけにとどまらず、世界的な企業がビジネスに活かそうという動きも活発になっている。2010 年10月に日本で創設された「応用脳科学コンソーシアム(CAN)」もそのひとつだ。そのキーマンである萩原一平氏に、脳科学研究とビジネスへの応用についてお話しをうかがった。
脳科学がビジネスに活かされる時代
グーグルは、2012年6月に大規模なシミュレーション実験の結果を発表した。1万6000個のCPUをネットワークし10億以上の接続ポイントを作り、大規模な人工ニューラルネットワークを構築し、それに1週間にわたりYouTubeを見せ続けたのだ。人間の脳の神経回路網の学習プロセスをシミュレーションした。このニューラルネットワークは、事前に猫を教えることなく猫の写真を判別するといったことができるようになっていた。これを自己教示学習というが、このような研究の延長線上に、検索結果を自動的に分析し比較するなどの検索技術の革新が、2020年までに達成される可能性があるという。ビックデータを活用したマーケティングビジネスにもつながっていくものと考えられている。このような脳科学の産業応用が今まさに世界中で進んでいるのだ。
国内に枠組みを作る
萩原氏は電気工学を大学院で専攻後、電機メーカー、シンクタンクで活躍した後、1997年に現在の職場であるNTTデータ研究所での職に就き、以来数々のコンサルティングに関わってきた。環境ビジネス、地域経営とライフサイエンス医療に関わるコンサルティングを行った際に、認知症が地域の大きな問題になっていることを知る。その解決の糸口のひとつとして脳科学を調査しているときに、脳科学の産業応用が海外でかなり進んでいることを痛感した。世界では脳科学の知見を経営に活かすニューロマネジメント、政治に活かすニューロポリティクスなど新しい研究が行われており、グーグル、マイクロソフト、IBM、3M、ディズニー、ユニリーバ、フィリップス、P&G、フォルクスワーゲンといったグローバル企業は脳科学を活用するための研究を進め、脳科学はマーケティング、研究開発、マネジメントに活かされつつあった。「企業活動は人間活動そのものが相手です。脳を知らずして企業活動はできないんじゃないかと思ったんです。ですから、脳科学の知見をあまり取り入れていない日本企業の取り組み方では、今後競争力が低くなる危険性があるのではないかという意識がありました」。これがきっかけで、日本での脳科学の産業応用化を自分の大きなテーマに据えてやっていくことを決めた。一番のハードルは、企業内の部署間やアカデミアの研究分野間での連携の弱さだった。脳科学は業種や分野を横断してシナジーを生み出す可能性がある。そこで縦割りの体制に大きく横串をさす仕掛けを企業の枠組の外につくろうと思ったことが、コンソーシアム設立のきっかけとなった。
オープンイノベーションを達成するために
基礎研究が産業応用されるためには、研究者と企業とのコラボレーションが円滑に図れる仕組みが欠かせない。その意味で、株式会社国際電気通信基礎技術研究所(ATR)の川人光男氏との出会いは、萩原氏にとって大きな意味を持つ。川人氏は基礎研究と産業界とのコラボレーションの重要性を認識している脳科学研究者の1人で、そのアドバイスがきっかけでCANと日本神経科学学会との連携が実現したのだ。さらに萩原氏の尽力により、現在では産業界から10の特別会員、21のR&D研究会員、7の協賛会員(2013年4月現在)が集まる。食品・飲料系、化粧品系、建築系、自動車系、電気系、IT系、広告系など多様な業界の企業が神経科学会所属の研究者をはじめとした脳科学にかかわる研究者と様々なテーマの研究会、R&D研究会を形成している。2012年度は、NTTデータ主催の「ヘルスケア脳情報研究会」、竹中工務店主催の「コミュニケーション空間研究会」、日産自動車主催の「プレジャダイナミクス研究会」、帝人主催の「心理性素材研究会」、凸版印刷主催の「エモーショナルインテリジェンス研究会」、東芝主催の「マルチモーダル脳情報研究会」、その他事務局主催の「ニューロデザイン研究会」、「ニューロプレファレンス研究会」、「ニューロウェルネス研究会」、「ニューロアーキテクチャー研究会」など、その数は10に及ぶ。
ニューロデザインで革新を!
すでに具体的なアプローチが進んでいる研究会もある。ニューロデザイン研究会はその1つだ。カギになるのは、脳活動のデコーディング技術だ。fMRIを用いて、刺激に対して生じる脳活動を計測してマッピングをしていた従来の刺激の解析方法とは逆で、脳活動から刺激の種類を読み取るのがこの技術である。
脳科学を商品のデザイン創出に活かすことを目指し、脳活動のデコーディング技術の第一人者であるATRの神谷之康氏を研究会に迎え、脳の情報コードを基に様々なデザインを分類し、「ニューロデザイン系統樹」を描くプロジェクトを進めている。これから数年かけて、あるニューロデザインが消費者にどのような行動を引き起こすのかといった分析をさらに加えるなど複数の研究ステップを経ていく予定だ。将来的には、消費行動に効率的につながるようなデザインが生み出されていくことが期待される。ニューロデザインは、食品などのパッケージや広告だけでなく、情報伝達方法、自動車や建築に至るまで、生活のあらゆる場面で活かされる可能性がある。各国の文化や嗜好に合わせたデザインを創出することができるようになれば、グローバル展開の強みとなることは間違いないだろう。
社会とつながった研究を意識する
CANのリサーチ業務に若手研究者のインターンを受け入れている萩原氏は、30 代前半くらいまでに、自分の研究をどのように社会に活かすのかと考える経験を持つことが、研究の産業応用の活性化へとつながっていくのではないかという。「これからもっと多くの企業に参画いただいて、脳科学を事業に活かしていってほしいです。マーケティングや研究開発だけでなく、経営やグローバル化でも重要になる視点だと考えています」。日本人と欧米人の物事の捉え方の違いを踏まえたビジネス環境の構築、認知症や精神疾患の予防に向けた商品やサービスの開発にともなう医療費の削減など、脳科学が役立てられる場面は数多く存在すると萩原氏は指摘する。
今後、CANから研究と企業の双方が活性化し、どのような成果が生み出されていくのか、楽しみである。
【参考】
http://googleblog.blogspot.jp/2012/06/using-large-scale-brain-simulations-for.html
脳科学がビジネスを変える 萩原一平著 日本経済新聞出版社