【特集】遺伝情報と向かい合い、人と向かい合う -東京女子医科大学 齋藤 加代子 教授
遺伝子検査を受ける人が増える中、医療現場では臨床遺伝専門医や認定遺伝カウンセラーによる受診者のサポートが広まりつつある。臨床遺伝専門医で、東京女子医科大学遺伝子医療センターの所長を務める齋藤加代子氏から現場のお話を伺うことができた。
受け入れるための土台をつくる
「遺伝カウンセラーは人生の伴走者のようなもので、いつでも相談に乗りますよというスタンスでやっています」。こう話す齋藤氏の活動拠点である東京女子医科大学遺伝子医療センターには、2012年度だけで年間約2,200人が訪れている。同センターでは、考えの偏りを防ぐために臨床遺伝専門医、認定遺伝カウンセラー、臨床心理士、看護師など数名のスタッフ同席のもと、来訪者に最初の遺伝カウンセリングが実施される。初診は優に1時間はかかるという。その後、スタッフだけで遺伝子検査の妥当性や今後の方針について検討がなされる。この結果を受けて来訪者とのさらなるカウンセリングが始まる。遺伝子の変異や疾患のしくみの話から、疾患の個人あるいは子どもへの影響の説明、治療方法の紹介、家族構成のヒアリングなど、一緒に考えていけるための科学的、医学的な材料の提供だけでなく、相手を十分に理解するためのディスカッションを重ねる中で遺伝子検査実施の可否が決まっていく。「検査結果を知ったときに受診者の考えが変わるのではなく、検査を受ける前にその人が状況を理解し、自分で判断できるようになった上で、検査を受けるかどうかの答えが出せるようになることが大切です」。
変わりつつある遺伝子検査を取り巻く環境
アンジェリーナ・ジョリー氏が全ての女性にとってメリットがあると思って手記をニューヨーク・タイムズ紙で堂々と公開できたのは、アメリカで遺伝カウンセリングのしくみが整っていることの現れだと齋藤氏は指摘する。「遺伝病の場合は、100分の1、300分の1の確率で発症する、といった言い方をします。300分の299は大丈夫ですと捉えれば違った印象になりますが、どうしても300分の1の方で捉えがちです。こうした確率の表現が持つ危うさを理解していくのも遺伝カウンセリング教育です。遺伝に関わる事柄を患者さんや家族にわかりやすく、正しく伝えることが大切です」。こうした検査結果のデータ解釈に起こりがちなあいまいさをわかりやすく伝えることも含めて、現場で適切な説明ができる医師やカウンセラーの数を増やす必要がある。そのために日本遺伝カウンセリング学会と日本人類遺伝学会が協力し、2002年に医師を対象にした臨床遺伝専門医制度を、2005年に医師以外の人を対象にした認定遺伝カウンセラー制度を始めている。2013年の段階で、日本国内の医師免許を持つ臨床遺伝専門医は約1000名、医師免許を持っていなくても資格を持てる認定遺伝カウンセラーは140名。医師とは独立した立場からデータの解釈を伝えるだけでなく、心理的なカウンセリングも実施するなど、心のケアでも重要な役割を果たす認定遺伝カウンセラーに関しては、お茶の水女子大学大学院、川崎医療福祉大学大学院、北里大学大学院、京都大学大学院、近畿大学大学院、信州大学大学院、千葉大学大学院、東京女子医科大学大学院、長崎大学大学院の9大学院で養成専門課程が開設され、人材育成が図られている。修士課程からのコースを設けており、学部を卒業した学生が入学してくるケースに限らず、看護師、ゲノム関連の事業を行っている企業で働く人、教師も履修するなど、幅広く遺伝カウンセリングに対して意識の高い人が集まる。
求められる、科学的な根拠の成熟
1,000人ゲノム計画などで大規模にゲノム情報が集まり始めているが、疾患との関連性は必ずしも未だ正確ではない。ミスセンス変異の場合は疾患の原因だと報告されていたものが実は多型であるというケースや、逆に多型だと思っていたものが疾患の原因だったというケースがあり、論文で公表されていることが必ずしも正しいとは限らず、まだ確立されていない部分がある。このように疾患と疾患ではないことの境界があいまいな現状がある一方で、疾患のリスクは確率で表現されて提示される。こうした場合、日本人のデータベースとの比較なのか、欧米人のデータベースとの比較なのかという点は十分に考慮されるべきだと齋藤氏は考える。「日本人のSNPが欧米人と比較した時に特異で、疾患との関連があると判断されることもあり得ます。日本人のデータベースで比較して確実に疾患と関係があるという十分な根拠がない状態で、マスメディアに取り上げられて情報が広がってしまうことは避けないといけません」。
リテラシーの向上が環境を変えていく
30年ほど前にアメリカに留学していた際、成長ホルモンが欠損したマウスがどういう状態になるかということを遺伝子レベルの話も含めてテネシーの地方新聞に掲載されていたと振り返りながら、市民の知識レベルを上げていくことの必要性を訴える。「小学生から遺伝子のことを教えてもいいと思っています。子どもたちに、遺伝子が人それぞれで違っていて、それは当たり前のこととして起こるということを伝える。そうすることで、人の多様性を学び、遺伝子の変異のことをもっと身近なこととして捉えられるようになるといいと思っています。そういう意味では、日本の教育はまだまだ遅れています」。
理解できるということが、本人だけでなく家族や周りを取り巻く人たちにもプラスに働く。齋藤氏のもとを訪れたある夫婦は、妻の家族に進行性の遺伝性疾患があった。遺伝カウンセリングを進めていくうちに、病気のことや遺伝子のことを理解した夫の様子が目に見えて変わっていったそうだ。遺伝性疾患が陽性だったとしても彼はこれまでと変わらず彼女と共に人生を送れると判断した齋藤氏は、大学の倫理委員会にも諮問して、妻の遺伝子診断にGOサインを出した。結果はやはり陽性であったが、この検査を通して状況を理解した夫が妻に対して以前よりもずっと温かく接するようになったことが、妻にとっては何よりうれしかったという。
技術の発展にともなって容易にゲノム情報にアクセスできるようになってきた今、対峙する側の知識レベルや受け入れる姿勢がより大事になってくるだろう。そして、齋藤氏のように相手の人生と真摯に向かい合い、科学的なしっかりとした知見を踏まえて話すことができる人がよりいっそう求められるに違いない。この両者がかみあってようやくゲノム情報という、避けて通れない情報の恩恵を享受できる時代が来るのではないだろうか。
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徳永 勝士 教授