生身の身体という枠に囚われていた
私の大学院時代の専門は、行動生態学であった。そして今、働いている会社リバネスでも分野が近いメンバーが多いため、自分の生身へのこだわりにあまり気が付かずに過ごしてきたことに気が付かされる場面に遭遇した。
先日、電気通信大学であるイベントに参加をした。そのイベントには、工学系の学生が参加していた。そして、その中で自分が作る未来をみんなで語る場面があった。そこでは、様々な意見が出たけれども大きく考えていること・想像している未来が違うなと思ったのは身体の必要性がないと言っていたこと。
彼らによれば、信号を受け取り処理する脳さえあれば身体は必要ないと言い切る。私は、やはり生の身体というものがあったほうが良いなぁと思うわけだ。いくら、自分の手や足で感じるように信号を受け取ることが出来るのだといわれても、私には脳だけでもいいと思いきることが出来ない。
この話を受けて私が感じたのは、私の想像は常に人間の身体という制約に囚われたうえでの未来を想像していたのだなということ。行動生態学では、実際にフィールドに出て鳥の行動を直接観察していたので、その場に居たいという欲求が強い。でも、このようなフィールド調査でも人間の影響を受けずに観察をしたい、もしくは簡単に行けないような場所での調査には、身体がその場所に存在しなくてもデータを収集できるようになることで、研究を加速することが可能になる。すでに、小型ビデオの設置や、動物にカメラを背負わせるなどの遠隔データ収集は行われている。将来的には、ビデオではない他の方法で観察データを収集できる日が来るのだろう。
今よりも手が増えたらよくない?と聞かれたが、二つの手もまだうまく使いこなせていないのではないかと思えるような状況でこれ以上コントロールすることが必要なものが増える事には不安しか覚えられない自分が居る。私の場合、まずは自分が持っている能力を最大限引き出せるようにするところからチャレンジを続けていくところからのスタートだ。