情報科学がもたらした生物学への衝撃 理化学研究所 上田 泰己

情報科学がもたらした生物学への衝撃 理化学研究所 上田 泰己

ある分野の研究が進めば別の分野に刺激を与え、新たなるチャレンジャーを生み出す。今回は情報科学の発展により刺激された生物学者について紹介する。数学や物理は『複雑』な生命をどのようにとらえるのか。

生物学でおきた情報爆発

東京大学医学部にいた上田泰己さんは学生も終わりというタイミングで大変ショッキングなニュースに出会う。ヒトゲノム計画が完了しヒトの遺伝情報がすべて解読されたというニュースだ。ゲノムとはヒトのDNA情報1セットというような意味。ヒトゲノムはATGCの4つの文字が約30億文字集まったもので、そこには数万種類の分子の設計図が書かれたデータの塊である。当時はたった1人のゲノムを読むのに13年で3000億ドルもかかっていたが、アメリカはさらにゲノム解読技術への投資を継続。イノベーションにより費用を指数関数的に圧縮していき、人類全体のゲノムを安価に解析できるようにするまでのロードマップが示された。

この発表の衝撃は、情報科学のパラダイムを待ったなしで生物学に適用しなくてはいけないことにあった。DNAは文字列情報であり、データの塊とみなせる。もしゲノム解析にかかる費用が1000ドルまでさがればこれまで25年間かけて解読されてきたゲノムデータが2年で解読できるようになる。そのため、情報科学で生まれたデータベース技術や解析手法を適用しなくてはとても太刀打ちできない。

このニュースを聞いた上田さんは生物学の捉え方について大きな転換をする。「今までの生物学はせいぜい数個の因子を扱うだけだった。自分がやってきた研究はすぐに古くなる。これからは数千、数万の因子を一度に扱えるような生物学が必要だ」と目覚めたのだ。そこで目をつけたのが情報科学のアナロジーで、生物をシステムとして捉える方法だった。そこで生物を「要素」「ネットワーク」といったレイヤーで捉えることに挑戦する。ゲノムは生物を構成する「分子」について教えてくれるが、分子はあくまで「要素」であって、その上のレイヤーである「分子どうしのネットワーク」がどうつながっているか、また、ネットワークで行われる「ループ処理」について解析できないかと考えたのだ。目覚めた上田さんの動きは早かった。すぐにソニーの研究所に出入りするようになり、ある製薬企業の外部研究者になる。めきめきと成果をあげ、日本中の誰よりもシステム生物学に先行した結果、27歳のときには理化学研究所のチームリーダーになっていた。

体内時計をシステム的に解く

では上田さんは生物学のどういった問題をシステム的に解くことにしたのか。上田さんは脳と眠りと関係が深い「体内時計」にアプローチした。人間をはじめ多くの生き物は地球の自転にあわせた24時間周期で生活する。朝になれば目が覚め、夜になれば眠くなる。これは生き物が体内時計を持っているからで、この中枢は脳の視交叉上核(しこうさじょうかく)にある。ここが基準となって、生活のリズムをつくっている。上田さんは体内時計の実体が、周期的な遺伝子のオンオフを繰り返す時計細胞にあり、その周期的な遺伝子の転写調節を行うネットワークの姿を解明した。当時の論文は大変な注目を浴びた。その理由の1つが、人工的にそのネットワークを作った手法にあった。計算機シミュレーションの結果を、人工的に再現するという工学研究での定石は、生物学では珍しく、そして鮮やかなアプローチだったからだ。

生物学でスパコン並みの並列処理

京(けい)コンピュータの場合、800のラック、8万のCPUで並列計算が行われる。これに対し、上田さんの構想では、ES細胞から作成した何千種類にもなる遺伝子改変マウス群に対して計測をする並列実験ができないか考えているという。「現在の生物学のボトルネックは、遺伝子改変を行った個体を扱うところにあります。せっかくゲノム解読によって遺伝子と細胞の関係がわかってきても、遺伝子改変マウスをつくることが困難で、個体レベルでの検証実験にものすごく時間がかかる」と話す。

そこで遺伝子改変マウス作成過程のボトルネックになっている、「交配して産ませないと遺伝子改変マウスができない」点に着目し、遺伝子改変を施した幹細胞から交配をせずに一発でマウス個体を作成する方法を開発している。この「交配しない遺伝学」手法が安定化すれば、1年半かかっていた実験がわずか1〜3ヶ月に短縮されることが期待されている。そのプロセスすら簡便化・自動化できれば、ゲノム改変マウスを短期間で少量多品種で用意し、数千〜数万種類のゲノム改変マウスを扱えるようになることも夢ではない。これまで発見できなかった因子どうしの関係性も計測可能と期待され、生物学における実験データの量や質の指数関数的な変化は間違いないだろう。

「自分とはなにか」を追い求める

遺伝子改変マウスの並列処理は、発生工学の発展がなければ夢物語だったが、実現は少しずつ近づいている。こうした大胆な仕掛けの原動力となる問いはなにか?「究極的には『自分とはなにか』を知りたいと思ってきた。今までの生物学よりも「本質的に複雑なもの」が扱えるようになってきているので、脳における自由意思や自己の起源を調べてみたい」とまるで哲学者のようなことを言う。しかし「言葉は不確かで、数学、物理、化学などを組み合わせたソリッドな方法をとっていきたい」と語り、システム生物学を追求するやり方は、科学者でしかあり得なかった。生命科学にまつわる複雑さを解くために数学、物理、化学は鋭い武器となってくれている。

上田泰己さんプロフィール

東京大学大学院医学系研究科 システムズ薬理学教室 教授
理化学研究所 生命システム研究センター グループディレクター