脳研究の新時代を告げる地図 伊藤啓

脳研究の新時代を告げる地図 伊藤啓

米国大統領バラク・オバマ氏がコネクトーム研究を推進することを表明するなど、脳神経回路の仕組みを網羅的に解明することに注目が集まっている。しかし、それよりも20年以上先行してコネクトームに着目した日本人研究者がいる。それが、伊藤啓氏だ。2014年にキイロショウジョウバエを使って脳の構造を世界で初めて明確に定義し、脳の仕組みの解明に向けて高みを目指す研究についてお話をうかがうことができた。

人工知能から生きた脳へ

伊藤氏が脳研究の道に進んだきっかけは、人工知能の研究を志した1980年代後半の学生時代までさかのぼる。当時の人工知能研究はハード面で今ほど発展していなかっただけでなく、ベースとなる脳神経回路の全体の仕組みについての知見が乏しいまま知能のシミュレーションを行おうとしている状況だった。物理学科に所属していた伊藤氏はこの状況を目の当たりにして、まずは脳の仕組みから理解する必要があると強く感じる。シミュレーションできるレベルで研究するならば、脳の一部の組織についての研究データだけでは不十分で、回路全体でどのように情報の入力と出力がなされているかを理解しようと考えた。しかし、脳の全体を見るためには、人や哺乳類の脳では大きく複雑すぎる。そこでモデル生物に選んだのがキイロショウジョウバエだった。「脳の構造がシンプルで小さいので、脳全体を顕微鏡で観察できます。それでいて、摂食・求愛・闘争・学習記憶など哺乳類に劣らない精巧複雑な行動もできるため、脳の機能と行動の関係を調べるモデルに向いていると考えました」。また、キイロショウジョウバエは分子遺伝学の手法が容易に利用できるため、様々な変異体を作製することができる。さらに体のサイズが小さいので、場所をそれほど使わずに多様な変異体を飼育することも可能だ。脳の機能を俯瞰するような研究を始めようとしていた伊藤氏にとっては、うってつけのモデルであった。

キイロショウジョウバエという強力なツール

伊藤氏は最先端の分子遺伝学の手法をショウジョウバエの脳機能解明のために応用してきた。中でもGAL4発現誘導系統コレクションの樹立は、神経ネットワークの解明に大きな役割を果たしている。出芽酵母の発現誘導因子GAL4をゲノムの様々な場所に挿入すると、挿入された場所の遺伝子発現が活性化している細胞内でのみ、GAL4タンパク質が発現するという仕組みだ。全国9カ所の研究室と協力して、4500以上の系統を作って世界に広く公開した。

この系統を利用するときは、GAL4の結合配列の下流に緑色蛍光タンパク質GFPなど、目的にあわせた遺伝子がつながっているカセットがゲノム上に組込まれたキイロショウジョウバエの系統と掛け合わせを行う。自分が調べたい脳細胞中でGAL4が発現するような系統を選択すれば、特定の細胞を標識して観察する系が確立するというわけだ。GAL4を使って細胞質に広がるタンパク質を発現させれば神経全体の構造が、伝達物質の受容体やシナプス小胞に局在するようなタンパク質を発現させれば入力シナプスや出力シナプスの分布が分かる。細胞内のカルシウム濃度に応じて蛍光強度が変わるタンパク質を発現させると、神経の活動をモニターできる。毒素を発現させて神経の機能を止めたり、光や温度変化で開閉するチャネルを発現させて特定の神経を好みのタイミングで刺激したりすることもできる。細胞を塗り分けていく研究に加えて、神経活動のパターンの解析、行動の解析が組み合わさることで、少しずつ機能と相関した脳の構造がみえてきた。

脳研究の新たな基礎となる「脳地図」の誕生

図1 キイロショウジョウバエの脳地図 キイロショウジョウバエの脳の構造を、頭部の拡大写真に投影したもの。それぞれの色分けされた部分が各領域に対応している。

図1
キイロショウジョウバエの脳地図
キイロショウジョウバエの脳の構造を、頭部の拡大写真に投影したもの。それぞれの色分けされた部分が各領域に対応している。

伊藤氏は、多くの人が調べている神経でなく、まだ構造がほとんど分かっていない脳の領域の神経を体系的に調べ、百科事典のような長大な論文を仕上げてゆくという地道な作業を続けてきた。インターネットが普及しはじめたばかりの1995年から、脳の画像データベース構築にも携わっている。そこには、一部の領域の知見だけでは脳の神経回路全体の仕組みは理解できないという信念がある。伊藤氏が成果を発表すると、新たに見つけた多数の神経の解析に様々な研究者が参入し、それまでなかった新しい研究分野が花開く。その間に伊藤氏は、さらに新たな神経の発見作業を進めてゆく。こうして世界中を巻き込んで、脳の地図を作る壮大な計画が粛々と進行していった。伊藤氏の取組みはここでとどまらない。これから脳科学に関わる人全員が共通基盤として使う脳地図を作らなければ、混沌とした状況は変わらない。そこで4カ国15研究室の国際チームを率いて、全ての研究者が共通して使える昆虫脳の地図づくりを進めた。7年の歳月をかけ、数多くの学会で取組みを発表して多様な研究者の意見を聴きながら地図に境界線を引いてゆくという地道な活動の成果は、2014年のNeuron誌でようやくその全貌が発表された。47の領域に分けられた脳の構造は、新たな脳科学の出発点となるだろう(図1)。

「今、ウェブで詳細な地図を見ることができる理由はわかりますか。実は、全国をくまなく調査している調査員がいて、地道に道路や建物の情報を記述していっているからなんです。私の研究はこの地図を作る過程に似ています」と伊藤氏は自らの仕事を表現する。道路を神経線維、建物をシナプス、人はその間を動く情報の流れにたとえると、今はようやくいくつかの町の道路と建物が地図に揃い始めた段階といったところだろう。建物の詳細な構造や人の動き、それによって引き起こされる社会現象の解明はこれからがいよいよ本番。それぞれの神経細胞が脳のどことどこを繋いでいるのか、二次元データと三次元データを組合せて脳の詳細な地図を完成させることを、伊藤氏はこれからの目標のひとつに据える。脳研究の大航海時代は始まったばかりだ。

(文・土井 恵子)