幼い頃の夢を胸に事務職から研究者への挑戦 千葉 早苗

幼い頃の夢を胸に事務職から研究者への挑戦 千葉 早苗

パンクファッションに身を包み、颯爽と現れたのは海洋研究開発機構(JAMSTEC)の千葉早苗さん。元々JAMSTECに事務職員として勤めていたが、29歳のときにその仕事を辞めてアメリカの大学に留学。9年を経て再びJAMSTECに戻ってきたとき、彼女は研究者となっていた。

研究者の自由さに憧れた事務職時代

神奈川県三浦半島の付け根、逗子で生まれ、海や生き物に慣れ親しんで育った千葉さん。生き物図鑑を夢中になって読み、学名まで覚えていた幼いの頃の夢は、「生き物のハカセ」。テレビや漫画に出てくるような、何でも知っているハカセになりたかった。しかし、その夢はいつしか現実に押しやられていく。進路を考え始めた中高生時代には、研究者になるなど考えもしなかった。地元の外語短大で英語を学び、20歳で事務職員として働き出した場所が、たまたまJAMSTECだった。

当時は、男女雇用機会均等法が制定される遥か昔。「お茶汲みも仕事でした。最初のうちは疑問は感じなかったけれど、だんだんこれじゃいけないと思うようになって、次に何かをやるために,数年後から貯金し始めました」。その後、国際課へ配属され、英語を活かして外国人研究者の世話係を務める。それが、千葉さんの人生を大きく変えるきっかけとなった。彼らの姿は、とても格好よく、魅力的だった。既成の凝り固まった考えにとらわれず、自由な発想による想像力と創造力をもつ。その生き方はまるでアーティストのよう。「アーティストとサイエンティストは紙一重だと思いました」。

アメリカのポジティブ思考に背中を押され

そんな中、千葉さんはふと思い立った。「実際にこうやってプロの科学者として働いている人もいる。自分も何とかすれば研究者になれるのかもしれない」と。それを海外から来た研究者に話すと、「そう思うなら、学校に戻って勉強すればいいじゃない。大丈夫、できるできる」と後押ししてくれた。「特にアメリカの方たちは、とにかくポジティブに何でも“You can make it.”って言う。それに励まされたのもあるし、有名なマリンバイオロジストにも仕事で会う機会があって、いろいろな人から刺激を受けました」。幼い頃の夢を思い出した千葉さんは、29歳で研究者への転身を決意。アメリカの大学に自費留学し、海洋生物学を学んだ。

アメリカでは、何か行動すれば必ずリアクションがあった。「大人しくしていると誰も見てくれないし、消えてしまう。恥ずかしくてもなんでもいいから、何かを言って行動しないと」。千葉さんのモットー“No pain, no gain.”は「日本では『楽あれば苦あり』とかネガティブに訳されることもあるけれど、本当は『頑張れば必ず何かが得られる』っていうポジティブな意味です。ベストを尽くせば必ず道は開けるし、不思議に誰かが見ていて助けてくれるのです」。

世界と協力して、地球を相手にできる仕事

現在は古巣のJAMSTECに戻り、世界中のプランクトンの観測データを長期的に収集・解析し、地球環境変動に対して海洋生態系がどのように変化するのかを調べている。世界中の研究者と協力して、地球環境変動という壮大なジグソーパズルを紐解くためのピースを、少しずつ集めていく。

千葉さんにとって研究者という仕事の醍醐味は、発案から実施、資金集めや仲間集めまで、全てセルフメイドで行うところだという。「プロジェクトの責任を負うというプレッシャーはあるけど、言われたことをルーチンでやるのではなく、自分でプロデュースできることが楽しいですね。共同研究というかたちで世界中のいろんな人とチームを作って、地球規模の変化を解き明かしていけるのも、世界を股に掛けている感じがして楽しい」。

今後は、サイエンスと社会のコミュニケーションを強めていけるような研究者を目指す。現在行っている生態系の長期変動研究は、人類の未来にとって大事であるにもかかわらず、時間がかかり地味であるため資金を得られにくい。そのような研究の重要性を政策者や産業界、一般の人々に伝え、ともに地球環境問題に取り組んでいけるような社会の実現に向けて、2年間イギリスに渡りスキルを学ぶ予定だ。様々な経験と行動力を持った千葉さんなら、そんな社会をきっと実現してくれるだろう。 (文 中島 昌子)

千葉 早苗さん プロフィール

地元の外語短大を卒業後、国立研究開発法人 海洋研究開発機構(JAMSTEC)に事務職として就職。9年間勤務した後、米国のCollege of the Atlanticに留学。卒業後、東京水産大学(現・東京海洋大学)大学院に進学。博士号取得後、研究者としてJAMSTECに戻る。博士(水産学)。