〔リバネスセンシズ〕多様な文化と知識から、新たな哲学を見出すひと(前編)
リバネスセンシズでは、リバネスメンバーのインタビューを通して、そのパッションを紐解き、実現しようとする個々の未来像をお伝えします。
伊達山 泉(だてやま いずみ)
博士(バイオサイエンス)
専門分野:分子細胞生物学
(聴き手:津久井 雅美)
入社から2年が経った現在、伊達山泉(だてやま いずみ)さんは、アジアを舞台に活躍している。文化と言葉の壁を超えて世界中のひとたちとコミュニケーションし続ける彼女は、今やリバネスになくてはならない存在になりつつある。今回はそんな伊達山さんに話を聞いてみた。
津久井:伊達山さんは快活なイメージがありますが、幼少時代はどんな子だったんですか?
伊達山:アニメ映画『魔女の宅急便』に憧れてましたね。主人公が13歳になって独り立ちするんです。私も真似をして、小学4年生のときに新幹線で大阪から東京の祖母の家まで行ってみたりしました。中学生になって、友人から聞いたアメリカの話がとても楽しくて。それをきっかけに、海外に憧れるようになりました。中学2年生の時にホームステイでオーストラリアに行きました。そこで出会った女子たちとのガールズトークがとても楽しかったのと同時に、もっと英語が話せるようになりたいと思うようになりました。
英語を使って他の国のことを知りたい。ダンスとか音楽とか、遊びとかをもっと知りたい。英語を使って何かしたいという感覚が芽生えてきたんです。
中学3年生のとき、英語のスピーチ大会に参加しました。日本中から集まっていた同年代の子たちは、それぞれに方言を話すけど、大会では英語でコミュニケーションたりして、本当に面白かったんです。
津久井:ここまでの話だと「文系女子」っていう印象が強いですね。
伊達山:英語が好きで、国語も得意でしたが、理系科目は点数が悪かったですね。でも、父親が数学者だったので、数学はとても興味がありました。覚える科目が嫌いで、数学や物理など考える科目が好き。試験当日に考えてなんとかするようなやつですね。だから高校生のときは、物理と化学を選択していました。
津久井:でも、最終的には生物分野の研究していたんですよね。
伊達山:はい。実は、高校生のときは、心のどこかで「海外に行きたい」と思い続けていたんです。でも、学力がなければ留学しても苦労するでしょう。親にも、「海外に行きたいなら、海外に行く目的をよく考えなさい」と言われていました。進路について悩んでいた頃、友人の付き添いで国内の大学のオープンキャンパスに行くことになったんです。それも、当時は一番興味がなかった農学部です。そこで、研究者の方から医薬研究についてこんな話を聞きました。「細菌やウィルスが進化して薬に耐性ができていく。新しい薬をつくっても、その薬にまた耐性ができるという『イタチごっこ』になることがある。細菌やウィルスに耐性ができないようなアプローチを考えるため、世界中の研究者とともにゲノム解析などを行なっている。」私はそのとき、「これだ!」って思いました。世界中の人たちと一緒になって研究するという仕事の仕方が、私にフィットしたんです。結局、アメリカの大学に進学して、生化学分野の研究をすることにしました。
津久井:アメリカでの大学生活はどうでしたか?
伊達山:正直、苦労しました。生物という分野はやっぱり難しい。見えないミクロな世界での現象や仕組みが相手ですからね。研究するのも結構大変でした。アメリカの大学にいたときは、「テーマはなんでもいい」と言われていましたが、そう言われても・・・どうしたらよいかわからなくて。悶々とする中で、自身の過去を振り返ってみると、小学校から大学までずっと学校で過ごしてきていて、社会のことなんか全然知らないことに気がついたんです。だから、大学を卒業したら就職して社会に出ようと決めました。そして帰国後、タイヤのメーカーで2年半程はたらいていました。
津久井:なぜまた研究を始めようと思ったんですか?
伊達山:研究は創造することです。クリエイティブなこと。やっぱり、これをできるようになりたい、知らない世界を見てみたい、研究してみたいと強く思うようになったんです。でも、自分には自信がない。研究のやり方から改めてトレーニングし直そうと覚悟を決めて、奈良先端大学院大学に入りました。大学院では、哺乳類における細胞間シグナルの研究をやっていました。一次繊毛という細胞に生えた毛みたいなものが研究の対象です。もちろん簡単ではないですから、また苦労しましたけどね。でも知らない世界を見てみたいという気持ちは、以前より一層強くなっていました。
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