記憶の出現を「制御」する 森田 泰介

記憶の出現を「制御」する 森田 泰介

授業中にふと,昨日見たテレビのことを思い出してしまい集中できなくなった,という経験はないだろうか。記憶が頭に浮かぶタイミングを自分の意志でコントロールできるようにする,つまり「制御」することを目指している研究者がいる。いつ現れるかもわからない現象を,いったいどのようにして制御していくのだろうか。

ふと浮かぶ記憶のミステリー

自分で意図していないのに,記憶が頭に浮かんでくる現象を「無意図的想起」という。想起とは「思い出すこと」であり,記憶の重要な機能のひとつだ。私たちの生活に不可欠な機能であるにもかかわらず,自分で意図的に記憶を呼び起こしている場面は全体の半分程度,残りの半分が無意図的なものだといわれている。東京理科大学の森田泰介さんは,なぜ,どのように,無意図的想起が起こるのかを解明する心理学者だ。

心理学は感情や思考,知覚といった「心」のしくみを研究する分野であり,記憶もここに含まれる。「心」という実体のないものを扱うこと自体が難しいのだが,記憶の無意図的想起の場合は特に研究が難しい。意図的想起であれば,「昨日のことを思い出してください」と指示することで実験ができるが,無意図的想起はいつ起こるかタイミングが特定できず,外からも見えない。この神出鬼没でとらえどころのない現象に,どのように挑めばよいのだろうか。

見えないものを捉える

森田さんは,無意図的想起のしくみ解明のため「実験法」と「質問紙法」の2つの方法を用いた。実験法とは,人が置かれた状況によって,無意図的想起が出現する頻度や,その内容がどのように変わるのかを調べるものだ。たとえば,実験協力者に20分間,単調なリズム音に合わせてポチ,ポチとボタンを押し続ける作業をしてもらう。途中,何度か作業を突然中断し,そのとき考えていた内容と,退屈感を記録していく。この実験から,退屈感が高まるにつれて,未来の予定を突然思い出す無意図的想起の数が多くなることが発見された。

質問紙法は,数値で回答するアンケート調査のような方法だ。森田さんは,独自に開発した質問紙を用いて調査したところ,身の回りのできごとひとつひとつに注意を向けやすい人や高齢の人では,無意図的想起の頻度が少なく,これからやろうとしている行為を忘れてしまう「し忘れ」も少ないことを明らかにした。反対に,無意図的想起が頻繁に起こる人ほど「し忘れ」が多くなる。注意の向け方ならば意図的にコントロールできることから,これによって無意図的想起を適切に制御し,「し忘れ」の防止に応用できるのではないかと森田さんは期待している。

揺れ動く記憶を適切にコントロールする

森田さんが記憶に関心を持ったきっかけは,高校時代,「せっかく試験勉強したのに,なぜ完璧に覚えていられないのだろう」と思ったことだった。しかし,記憶の研究を続けるうちに,完璧にすべてを記憶できることは必ずしもよいわけではないと考えるようになった。「忘れたり,関係のない記憶が頭に浮かんだりと,記憶が不確実に揺れ動くことは一見役に立たないようですが,じつは人間の生活にとって重要な役割を果たすこともあるのです」と森田さんはいう。嫌な記憶などは絶えず浮かんでくることがないよう,忘れたり抑えこんだりする必要がある一方,やるべきことをタイミングよく思い出すことや,何気なく浮かんだ無関係な記憶が目の前の問題を解決するヒントになることがある。こうした記憶の揺れ動きを適切にコントロールすることができれば,たとえば大切な薬の飲み忘れや,車輪の出し忘れによる飛行機事故など,「し忘れ」によって発生する惨事をなくすことができるだろう。

ゴールのない挑戦

記憶という心のメカニズムを研究する森田さん。実験法や質問紙法で数値化できるのは,あくまでも結果としての人の行動や反応であり,心そのものが調べられるわけではないという。「観測された結果だけを手がかりに,見えない心の世界を解明していく。その意味では,心の研究にゴールはありません」と,森田さんはもどかしそうに,しかし楽しそうに語る。「さまざまな方法で模索を続けていく中で,『記憶』の真実の姿のヒントが見えてくることがあります。真実に一歩ずつ近づいているという実感が,私のやりがいです」。見えないものをとらえようとする心理学者の挑戦は終わらない。 (文・江川 伊織)

森田 泰介(もりた たいすけ)プロフィール

関西大学文学部卒業,同大学大学院文学研究科博士前期課程修了,同博士後期課程単位取得後退学,博士(文学)。2009年より東京理科大学専任講師,2015年より現職。専門は認知心理学で,研究テーマは記憶や思考がふと意識に浮かぶ現象,ぼんやり現象など,意図せぬ心の活動の解明と制御。