iPS細胞実用化の先鋒、 リサーチツール開発の最前線

iPS細胞実用化の先鋒、 リサーチツール開発の最前線

エーザイ株式会社
バイオファーマシューティカル・アセスメント機能ユニット グローバルCV評価研究部
主幹研究員 宮本 憲優(みやもと のりまさ)氏

iPS細胞が京都大学の山中教授らによって報告されたのは2006年。気がつけばもう8年も前の事だ。その後、世界中からiPS細胞を様々な細胞に分化誘導する技術が報告され、分化誘導効率の向上も目覚ましい。iPS細胞から分化誘導を行った各種細胞による動物実験での疾患治療効果の確認報告や、ヒトに対する臨床研究の計画発表など、再生医療の実現への期待はますます高まりつつある。一方で、再生医療という人類の大きな夢の影に隠れがちであるが、着々と実用化に向けて準備が整いつつあるのが、リサーチツールへのiPS細胞の活用だ。いち早く幹細胞を応用したリサーチツールの開発に取り組む、エーザイ株式会社の宮本憲優氏にお話を伺った。

幹細胞の可能性

iPS細胞の発明は、再生医療の実現に大きな前進をもたらした。それまでの再生医療の主役はES細胞(胚性幹細胞)であった。ES細胞はそのまま発生が進めばヒトになる胚を人為的に壊して取得することから、倫理問題を孕んでいる。現在でも日本でES細胞を用いるためには多大な事務手続きが必要なことから、研究の裾野は広がりにくかった。そこにiPS細胞が登場した。iPS細胞は線維芽細胞や末梢血など、入手が比較的容易な生体細胞を材料とするため倫理的な問題も少なく、ES細胞に比べて実務的にも社会通念上も扱いやすい。一方でがん化のリスクが知られており、再生医療実現に向け超えるべき壁が多いのも事実だ。

なお、iPS細胞には再生医療製品としての用途以外にも着目される用途がある。それが医薬品開発に用いるリサーチツールだ。例えばヒト以外の動物細胞を用いて医薬品の効果や安全性の試験を行っても、ヒトに対する効果や安全性を担保するものではない。だからといって研究用に株化されたヒトの細胞は元々の性質から逸脱する場合も知られている。医師が研究目的のみでヒトから細胞を採取する際に侵襲性の高い採取は困難だし、疾患に関わり採取される場合もインフォームド・コンセントを得るなど、実験に用いるハードルは非常に高い。iPS細胞であれば大元のiPS細胞を増殖させ、好きな細胞に分化させることができる。ヒトの様々な細胞を研究現場で容易に扱うことができるのだ。

コンソーシアムで挑む、標準評価法の開発

「当初はES細胞、現在はiPS細胞を採用しています」。宮本氏は同社で開発を進める医薬品の心臓への影響を評価するリサーチツール(心臓毒性評価系)について説明をしてくれた。

医薬品の重大な副作用として心臓の拍動に対する影響がある。心臓の拍動は心筋細胞に発現している各種イオンチャネルによって制御されている。化合物が最もリスクに関わっているとされるイオンチャネルhERGの働きを阻害すると、心臓の拍動に影響が出て致死性心不全を起こすことがある。現在心臓への影響を調べる評価系として採用されているのはhERGを強制的に発現させた動物細胞を用いるhERG試験、そして犬などの大動物に実際に化合物を投与して、致死性不整脈のバイオマーカーとしてのQT間隔延長測定も含めた心脈管系パラメータを心電図によって観察するin vivoの試験の2種類である。前者は可能な限りスループットを上げ探索研究初期に用いられるが、リスクを完全に予測できるものではない。またこの実験系から、致死性不整脈に関わるhERG以外のイオンチャネルに関するデータを得ることはできない。後者は前臨床の安全性評価で用いられる。前者より信頼性は高いが、ヒトへの影響を正確に反映したものではない。このため、臨床試験段階で心臓毒性が発覚、開発中止になった化合物が多く知られている。逆に、これらの試験でQT間隔延長が認められても致死性不整脈に至らない事例もあり、現行法では有用な薬剤候補を世に出せていないという指摘もある。エーザイはいち早く幹細胞を用いた新たな心臓毒性評価系の開発に着手し、その評価系が社内で採用されている。既に実用化されているのだ。

また2013年7月、日本製薬工業協会(製薬協)が中心となり製薬協加盟29社と各種研究機関などで組織された「ヒトiPS細胞応用安全性評価コンソーシアム」では、実績を評価された宮本氏がリーダーを努め、心臓をはじめ、肝臓や神経系を含めた新たなる毒性評価系に向けた挑戦が始まっている。製薬企業がこれだけの数集まって研究コンソーシアムを組織することは珍しい。「安全性の評価法は業界全体で標準方法を作り、広げていくことが重要です」。

現在の課題、これからの挑戦

期待を集めるiPS細胞を用いたリサーチツール。しかし課題も多い。「毒性評価に適した細胞は不足しています」。化合物スクリーニング目的で、iPS細胞自体を製薬企業で初期化、培養、分化し、スクリーニングレベルの生産やクオリティーコントロールを行うことは現状コスト的に見合わないという。このため、分化誘導された細胞を購入せざるを得ない状況だ。更に現在購入可能な心筋細胞が目的に見合った性状を備えているとは限らない。これらのことは、現在採用されているiPS細胞由来の細胞が、目標達成のために適しているから選ばれた訳ではなく、購入できる細胞だからという消極的な理由で選ばれていることも示唆している。更に細胞という性質上、購入可能な細胞製品の中にはロット差が大きいと言われるものも含まれている。安価で、安定的に、より正確に心筋の性質を再現する細胞の登場が求められている。また、これから信頼性向上にむけ莫大なデータの蓄積が必要とされる。「iPS細胞を用いたリサーチツールの信頼性が高まれば、動物試験の数を減らすことに繋がります」。まだ蓄積が少ないが、将来的には動物試験や一部臨床試験の代替としての利用の可能性も見えてくるだろう。

iPS細胞の実用化は既にリサーチツールにおいて始まっている。医薬品開発のコストダウンや動物実験の縮小など、信頼性の高い評価系ができることで得られる恩恵は大きい。iPS細胞は本当に“多能”だ。